研究室で躓いて失ったもの

大学院で苦境に立たされた時、命をどうこうする(自殺・他殺)よりは逃げ出す方がはるかにマシであるのは論を待たない。けれど、逃げ出すことでいろんなものを失うこともまた事実。
進退を決めかねて悩んでいる学生に、既に学位を取った人間が安易に「辞めればいいじゃない」などと言うのには強い反感を感じる。

この数年間で失ったものだらけ・・・(汗) | 非常勤講師はつらいよ―私学非正規教員の本音と生活向上作戦
この記事は、東北大の大学院生の自殺事件のからみで見つけた。納得行かない形で大学院を追われたことで失うものがあること、とても共感できる。

この数年間で失ったものは、まず「自信キラキラ」。以前は、多少の困難があっても立ち上がり、目標や希望に向かってやり抜き、周囲からは「努力家」「頑張り屋」と言われてきました。

私の場合はそれほどキラキラしていなかったかもしれないが、自信と粘り強さは大幅に目減りした。
人生の重用事を誰かの気まぐれに振り回さ、あげくに反故にされる体験をして、すっかり「どうせ」思考の癖が染み付いてしまった。困難なことをやり抜いたとしても、また気まぐれでひっくり返されTれてしまうのではないか、という疑いが常に頭から離れなくなった。まるで気まぐれに人間にいじめられて人を警戒するようになった野良犬のように。負け癖・いじけ癖がついたと言えるかも知れない。

そして、そうした自分を過去の友人知人(学生時代中心)に見せたくなかったのと多忙もあって、多くの人達と連絡取れず疎遠になってしまいました。つまり、失ったものの2つ目は「友人」。

これもよく分かる。自分が自信を失って停滞しているうちに友人知人が着実に人生を進めているのを聞くと、とても惨めな気持ちになる。今でも昔の同級生が社会人ドクターで学位を取った噂などを聞くと、ひどく苦しくなる。そして、そんな自分がさらに嫌になる。
自分の内面が荒んでいること自覚していると、妬みやひがみから相手に嫌な思いをさせてしまいそうで、連絡を取ったり会うのが怖くなる。実際、そんな気持ちのまま書いたメールの文面がひどくヒネくれていることに後で気づいて落ち込んだことも少なくない。

でも一番残念なのは、坊主憎けりゃなんとやらで「研究」という行為と「大学」という組織にまで不信感が芽生えたことかも知れない。