大学が曖昧にしてきたこと

三重苦の日本の大学院生、ひとのよすぎる日本の博士、大学のカス法科大学院 : 生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ

かれらの一番の苦は返済不要の奨学金がまったくないのです。こんなひどい国は世界ひろしといえどもありません。

二番目の院生の苦は、博士の学位をとっても、国内的に、ますます職の範囲が狭まっています。いつもこの欄でしつこく言っているよう、なんの優遇制度もなく、しかも企業サイドの逆差別が激しい。ほんとに、博士制度については、どこからどこまでおかしな国です。

三番目の苦は最近の大学の忙しすぎる学内体制で、指導者の劣化がひどく進行しているに違いありません。研究というのは老いも若きも、時間がたっぷりある、というのが前提ですから、いまの独立法人化後、優れた研究者も凡庸な研究者もみな肩で息をしているのですから、院生の教育など十分に気持がまわるはずがありません。

 起こっていることはその通りかもしれないが、大学院が荒んでいる最大の原因は失政や社会の無理解よりも、大学がやるべきことを怠ってきたことにあるのではないだろうか。

 一番目に挙げられている貧弱な奨学金制度の問題は、一番の苦というほどでは無いと思う。返済不要な奨学金がないことより、有意義な教育が受けられなかったり将来のキャリアパスが無いことの方が長期的に見ればよほど不幸なことだ*1

 二番目に挙げられている職の不足も大学に大きな責任があると思う。大学のポスト不足だけを見ても、若い研究者のポストを減らして教授の定年延長を進めている大学に責任が無いと言えるのか。また大学以外の職についても、やはり問題は企業に敬遠される博士しか排出できない大学院教育にあると思われる。実際、米国などでは様々な業界に博士の就職口があるようだ。
 企業側が博士の採用を渋る理由は、よく言われるような偏見*2や新卒至上主義があるにしても、結局のところ博士の能力が信用されていないからだろう。大学の教育力に対する不信感が「大学院より社内で教育した方がマシ」という認識につながっている。実際、修士に比べてほぼ確実に年齢が高い*3にもかかわらず、博士の能力が高いかどうかが疑わしいのだとすれば、企業がこれを敬遠するのも無理はない。
 産業界の大学教育に対する不信はずっと前から言われてきたことだけど、これまでに大学は「大学は職業訓練所では無い」と言い張るばかりで、意味のある回答をほとんどしてこなかったように思う。
 この不信を解消するためにはまず、大学が博士の育成目標を明確にして、学位取得者がその条件を備えていることを担保することが必要だろう。その育成目標は企業にとっても価値のあるような普遍性のあるものでないといけない。これまでは「より長い間大学にいたから優秀なはず」といくあまり説得力のない文言で博士の優位性が主張されることが多かったように思う。「博士はこれこれが出来る」と具体的に明示することで、企業側の疑念を減らすことができれば、自然と博士の採用にも積極的になるのではないだろうか。
 ただし「博士の能力を担保する」には、単に博士号の審査基準を厳しくすれば良いというものではない。研究というものは、研究環境や偶然といった本人の能力以外の影響も大きいので、審査基準は少々甘めでも構わないと思う。(本来は、本人の能力に加えて、指導者がちゃんと指導をしてきたか、十分な研究環境を運営してきたかも厳しく審査すべきだと思うが)
 むしろ重要なのは、「これこれのことが出来る人材を育成する」という大学の目的と意志をはっきり示すことだと思う。それも「21世紀に活躍できる人材がどーたら」などという中身が空っぽな美辞麗句ではなく、大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketingで挙げられている米国の有力大学の掲げる人材育成目標と同じ程度に具体的かつ明確である必要があるだろう。
 これまで大学は人材育成の目標を曖昧にしてきた。これは、その方が教員に都合が良かったからだと思われる。目標を曖昧にしておけば、学位の審査項目も曖昧にしておくことができる。指導目標が曖昧であれば、「指導」と称して教員が学生を自分の都合の良いようにこき使うことができるし、審査基準が恣意的であれば、卒業や学位を質に取って学生を支配することができる。


 三番目に挙げられている独法化後の指導についても、指導「環境」がひどく劣化したというのは本当だとしても、「指導者」の劣化はずっと前からだと思われる。そもそも大学の教員がその指導力を問われる機会など存在するのだろうか。聞いたところでは、大学の教授は、世間体さえ気にしなければ、指導などという面倒くさいことを放棄しても何のお咎めも無く定年まで過ごせるらしい。指導責任を教員各自の責任感だけに頼るというのは性善説過ぎるし、責任感があっても指導能力が足りなかったり、そもそも教育に向いていない人をそのままにしておくのは「未必の故意」ではないのだろうか。


 結局、奨学金の不備も就職が難しいのも、「博士には価値が無い」という社会の認識の現れなのだろう。これを覆すには「博士にはこんな価値がある」ということを明らかにするしかない。
 しかし困ったことに、それをやれるはず大学にはその動機がない。先述したように博士の価値を明らかにすると、これまでのように気まぐれの「指導ごっこ」でお茶を濁すことはできなくなる。このクソ忙しいのに自ら余計な手間を増やそうという教員は少ないだろう。

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 自分のいた研究室があまりにロクでもなかった*4ので、ついついそれを基準に考えて大学を批判する立場に立ってしまう。しかしそれを差し引いても、昨今のポスドクや博士の問題が「政治や企業の責任だ。大学は精一杯やっている。」という意見には同意しかねる。失政や社会の無理解があったのが事実だとしても、大学自身でも出来たはずの改革を何もやってこなかったことに最大の原因があると思う。
 もちろん大学人の全てがロクでなしではないことは承知しているが、一部のロクでもない教員や研究室の状況と、それらを放置している大学運営組織のことを考えれば、アカデミアが荒廃していくのは無理からぬことだと思う。
 不幸なのは何も知らずに(あるいは騙されて)夢を持って大学に入ってくる学生たちだけど、報道やネットで大学院の実態が広まり初めてきたので、徐々にそれも解消されていくのだろう。

*1:レベルの高い教育を受けて高いポストに就けるなら、借金を返すのも難しくないだろう。

*2:「博士は専門に凝り固まっているから云々」というあれ。

*3:飛び級の少ない日本では特に

*4:下手をすると年間の論文より退学者・精神科通院者の方が多い