大学院の研究と教育について

大学は、なぜ大学院生を増やしたいのか : 5号館を出てに、私の考えにかなり近いコメントがあったのでちょっと長いけど引用。強く同意するところを強調させてもらった。このコメントに「実情と違う」との反論が書き込まれているが、個人的な経験からそこそこ的を得ているように感じた。

大学院の研究と教育について

以前に書きましたが、実際の研究活動と大学院の研究者教育を切り離さないことには、大学院教育は大学の外で認められないと思います。大学院生は指導教官の研究プロジェクトを手伝い、論文を出すことで学位を認められると言うことが当たり前のようになっていますが、これは研究者育成の面では問題の方が多く、同じ大学内ですら平等に教育機会が与えられないので、博士が玉石混淆なのは当然です*1。これでは採用する方も怖くて手が出ないでしょう。
 そもそも科研費の採択率は100%ではないわけですから、もらえない所もあります。しかし、もらえなかったらその研究室の院生は学業を諦めるとか、もらえない教授はクビになるということもありません。結局、やることがなくて放置されて、その間バイトだけしていた院生にも、もう何年も大学院にいるんだからと言う理由だけで学位が授与されたりします*2。逆に、科研費などが潤沢な研究室は、良い大学院教育を受けられるチャンスが広がりますが、必ずしも正しい教育を受けられるとも言いがたい状況です。

大学院生が直接研究プロジェクトの担い手になるということ、そしてそれが院生の学位取得と密接に関わって来るという事態の当然の帰結として、研究テーマは指導教員の研究費テーマに強く依存し、求められる結果も決まっていることから、院生の自主性や研究考察能力が育たないこと、時には論文作成も教官が行うので、論文を書かなくても学位が取れることなどの弊害があげられます。また逆に、教員の方もプロジェクト遂行のために、研究者に育て上げるつもりもないのに学生を研究室に入れるという問題も出てきます。
 こう言った研究費の取得状況や、与えられた研究テーマの善し悪しで院生の未来が大きく変わってしまうような過程を教育と呼んで良いのでしょうか。実際、そう言う過程から生まれて来た現在の博士たちは、社会に行き場がなく、最終的には院生時代と同様な、科研費プロジェクトをお手伝いするという立場(これをポスドクと呼んでいますが、正しい呼び方とも思えません)で働くか、それすら続けられずに社会から脱落するかのほぼ2択しかないという現状ではないでしょうか。このような未熟な博士を生み出す仕組みに、国から巨額の研究費が使われているというのは絶望的な状況でしょう。

私は、院生はもっと一般性のある研究ステップを、指導教員とのディスカッションや過去の事例などから学ぶことが重要だと思います(むろん最先端の研究についてセミナーなどで学ぶ事なども重要だと思いますが省きます)。このためには、まず教員が基礎を教え、その後院生から研究テーマを立案し、必要であれば院生自身が研究費を申請するべきです。また成果としての論文作成や投稿は、指導教員ではなく院生がやるべきことでしょう。一連の研究遂行の過程を知らない博士に研究者の資格があるとも思えません*3
 結局、教員の業績の評価とは、院生を使って論文を発表することではなく、いかに多くの優秀な博士を生み出したかについて、教え子の業績や進路で評価されるべきだと思います。(ボスの仕事を手伝って出した)論文の数で教員を選ぶなどと言う採用方法は狂っているとしか思えません。自分で研究がやりたい教員は、辞めて研究員になるべきだと思います*4
大学は、なぜ大学院生を増やしたいのか : 5号館を出て

*1:私も大学にいた時期に研究室が予算を全く獲得できなかったので、非常に悔しい思いをした。

*2:これをラッキーと思うより、ろくに成果が無いのに学位を受けることで悩んだり、研究活動に失望してしまう院生も多い。

*3:「単独で研究を遂行できる」のが博士の定義だと言うなら、研究プロセスを最初から最後まで経験させるのは必須だろう。

*4:極論かもしれないが、研究を言い分けに教育を放棄する教官にはこう言いたい。