『理科離れの真相』

 10年以上前に書かれた理科離れ・科学技術離れの本。4人の著者が4つの章をそれぞれ執筆している。
 第1章と第2章はまずまず納得のいく内容だった。特に第1章で述べられている、「科学の高等教育を受けた若者がオウム真理教に入信した理由」の考察が印象に残った。ここでは彼らは大学での研究の失敗や教授との確執、研究費の窮乏などに嫌気がさして、教団の提示した潤沢な予算と自由に研究できる環境を求めて入信したのではないか、と推察されている。世間では「実は彼らには元々オカルト嗜好があった」とか「暗記中心の受験勉強とは違うものを求めていた」といった理由付けがされることが多いように思うが、個人的には「より良い研究環境を求めて」という理由の方がずっと納得がいく。もし自分が大学院で一番つらかった時期にそういった誘いを受けていたら、あるいは誘いに乗っていたかも知れないとさえ思う。
 第3章は、理科離れ対策の有力株として議論されている「小中高校の実験の時間を増やす」ことに対する反論が述べられている。この章の著者は、今の実験のやり方のまま時間を増やしても効果がないと主張している(今の学校でやっている実験は単なる「作業」であって、いくらやっても科学的思考は身に付かない、と精神科医和田秀樹氏も自著で書いている。)。著者は、単に時間を増やすのではなく、仮説を重視する実験に切り替えるべきだと言う。そして、仮説を立ててから実験をする授業方法を開発してきた。試験的に行った授業は生徒の評価も良いそうだ。
 この「実験の前には仮説が必要」だという考えには諸手を挙げて賛成したい。そもそも「実験」というのは何かを「確かめるためにやる」ものであって、「確かめたいこと」があやふやなまま手先を動かすのはただの作業である。むしろ生徒に「確かめてみたい」という欲求をもたせることができれば、教師が実験操作をやってみせるだけでも十分な満足感を生徒に与えられるようだ。考えてみれば、理論系の研究者はこれと同じように、自分は仮説を立てたり分析をしたりして実験は別の研究者に任せるというスタイルで研究をしている。
 残念ながら現状では、ほとんどの小中高校の実験の授業は、プリントや教科書に書かれた通りに道具を動かして「既にわかっている答えを追認する」だけのお遊戯のようなものになってしまっている。このようなニセの実験はやっていても(やらされても)実につまらないし、考える要素など何もない。理科系の大学を出た人なら、学部初年度で必修であった学生実験がどれほどつまらなかったを思い出してもらいたい。
 ちなみに本書の第4章は独立行政法人だか公立機関の労働組合の人が賃上げ要求をしているようにしか読めなかった。もっとはっきり言うと、理科離れ対策と称して自身の利益に誘導する悪質な扇動という印象を受けた。
 この著者は、現役の研究者・技術者が待遇の悪さを不満に思っているというアンケート結果を理由に、大学教員の給与を上げれば理科離れが解決するかのように書いているが、まるで同意できない。(待遇を上げること自体には異論は無いが)
 ある職種の公務員の給料を上げればその職の人気は高まるだろうが、それが国民全般の理科離れに効果があるとは思えない。実際、開業医や(少なくとも少し前までの)弁護士は高収入で知られていたが、それで医学や法律の知識や思考法が国民に広まっただろうか。

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 実は最も残念なのはこの本の内容が「今でも通用する」と言うか、今議論されているのとさほど違わないことかも知れない。(理科離れがどうこう言われだしたのはさらに昔からのようではあるが、)この10年で何も変わらなかった(もしくは悪化した)ということだろうか。