論文の投稿を決める者

シンポジウム: 科学研究における「不正」の構造 : 5号館を出てへのコメント。(強調は私が同意する箇所)

現状の大学システムでは教授の権限は絶大です。院生、ポスドクは自分では論文を出せず、責任著者である教授が最終的に判断します。つまり、教授がいいと言うまで、院生、ポスドクには、何も目に見える形の業績は残りません。これは業績主義の現在では非常に恐ろしいシステムです。教授は自分の気に入らない結果を論文にしないだけでいいのです。逆に業績が必要な院生、ポスドクは、望まれる結果が事実と反した場合、この2つの擦り合わせを行うことになるでしょう。あえて捏造とは言いませんが。これが一度行われれば、それを受け継いで研究する人間もこの「操作」を再現できなくてはなりません。そうやって系譜が受け継がれて行くのでしょう。このシステムの卑怯なところは、教授は「そんな指示はしてない」といえばそれで終わりの話と言うことですね。責任は「操作」をした人間だと言うわけです。業績主義とはいかに教授のために作られたシステムかと言うのがよくわかります。これをパワハラとして認められないなら、学生は、大学院など行かない、むしろ研究しない方がいいのではないですか。

「修行中」である院生の場合は教授が判断するのはおかしなことではない。それに対してポスドクは「一人で研究を進めることができる」というお墨付き(博士号)を既にもらっているのだから、論文の提出の判断は本人がやれば良い。教授がその論文の内容を認められないなら、それをきっちりと伝えた上で共著者から外れれば良い。
現実的には、ポスドクが研究室の予算で雇われている以上、教授が共著でない論文(研究室の業績にならない論文)を認めるのは難しいのだろう。
それでも私は、自分が納得できる論文であれば投稿して外部の評価を仰ぐべきだと思う。論文の価値は研究の世界が認めることであって、教授の権力の道具になってはいけない。