指導の指導

大学院生が卒論・修論指導をすべき理由とそのやり方 - 発声練習
 大学院生に後輩の指導(指導体験)をさせるというのは大賛成。指導する・読む側に立つことは「論文を書く」という行為を客観的にとらえる機会になる。上記の記事にはその方法や注意点が具体的に書かれていてとてもためになる。後輩の指導を任された大学院生やポスドクや助手にとってはとても役に立つと思う。

 ただ、気になるのは、大学院生に指導を任せるこのやり方は、教官にかなりの指導力が無いと難しいだろうということ。論文を書く技術が研究室で代々受け継がれるようになるには、少なくとも最初の学生には、「論文を書く技術」に加えて「「論文を書く技術」を指導する技術」まで教官が指導しなければならない。これなしに大学院生に後輩の面倒を見ろと指示するのは単なる指導責任。

名選手必ずしも名監督ならず

 「論文の書き方」に限らず、何らかの技術を指導するには、指導者がその技術を習得しているだけでは足りない。人に教えるためにはその技能を「形式知」に引き上げておく必要がある。つまり、自分がどうやってその技を使っているかを客観的に認識して、そのプロセスを言語化しておく必要がある。言い換えると、暗黙知形式知に引き上げておく必要があるということ。(一種のメタ認知と言えるのだろうか?)
 「指導の仕方」を指導するのはさらにもう一段上からの視点が必要になる。「指導をしている自分」を客観視して、それを言語化しておかないと「指導の指導」はできない。
 結局のところ、「技術」(学部生)と「「技術」を教える技術」(大学院生)と「「「技術」を教える技術」を教える技術」(教官)は、共通する部分はあっても、互いに違う技術だと言うこと。これをはっきり認識しておく必要がある。
 「自分では論文を書けるけど、学生の論文指導が下手な教官」は学部生と大学院生の間のレベルにある。そういう人が大学院生に後輩の指導をさせるのは、自分が出来ないこと*1を大学院生に押し付けているだけ。

*1:できなきゃ本当は指導者失格だと思うけど…