科学教育はなんのために

内田麻理香ブログ「カソウケンの科学どき技術どき」で紹介されていた『BERD 15号【特集】誰の、何のための科学教育なのか』は、良い記事が多いと思う。以下、気に入った箇所の抜き書き。

国民の血税を使って教育を受け、高い社会的地位に就いた人間には、いかにそれが自身の才覚のもたらした結果とはいえ、その高い社会的地位に応じた“ノブレス・オブリージュ”──つまり社会に対する義務と責任が生じます。日本では残念ながら、政財界を筆頭にして社会の要人にそうした意識が希薄です。
 そんな大人を見て育った子どもに、カネ儲けより社会に役立つことが大事だとか、コツコツ努力する道を選べ、などと説くのは、筋違いもはなはだしい。大人の責任は重大です。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_kimura_02.html

 一例を挙げると、子どもたちにも普及している「携帯電話」です。その原理は義務教育では学習しません。電磁波の性質は高校でも選択履修で学ぶ内容です。しかし、これを知らないと、電車の優先席のそばでは電源を切らなければならない理由が分からない。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_ogura_03.html

予測を立て、条件を設定してデータをとり、結果から何がいえるかを論理的に説明する方法は、どんな仕事にも使える。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_ogura_03.html

まあそういう仕事の仕方をすると「理屈っぽい(頭でっかちな)やつだ!」と嫌がられることもあるけど。

ですから民主主義国家では、軍事力の行使に関する最終判断・最高決定は、軍事の素人である国民が行い、その決定に軍隊が従い、実行するというシステムをとっています。
 軍事と同様のシステムが、高度に専門的知識が必要な科学技術の分野でも求められます。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_kawakatsu_02.html

日本の研究開発費は毎年増え続けていますが、GDPの方はバブル崩壊以降、鈍化がいっそう顕著となっており、マイナス成長を記録した年もあります。アメリカと同様に考えれば、研究開発費が増えれば、イノベーションが起き、それが経済発展に結びつくはずなのですが、そうはなっていません。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_niha_03.html

また、その他の分野でも、成功している人というのは、私たちが思っているよりもはるかに厳しい努力を重ねているわけで、それを「遺伝」で片付けてしまうというのは、彼らに対しても非常に失礼なのではないでしょうか。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_kitamura_01.html

このように、日本の「理科」は「自然に親しむ、自然を愛する」といった心情的な部分も育むことを教育目標にしているのですが、それはもともとscienceの要素ではなく、日本の伝統の中で独自に育まれてきた自然との向き合い方であり、むしろ徳目に相当する事柄です。
(中略)
「科学を理解する」ことと「自然を愛する」ことは、まったく異なる要素なのにもかかわらず、理科ではまさにこの二つが渾然一体となっているわけです。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_ogawa_02.html

西洋科学の枠組みでは、カエルは解剖台の上に置かれた時点で学習者にとって科学的観察の対象です。それはすでに「学習者と共に生きている世界の一員としてのカエル」ではありません。だから、そのカエルの体を切り刻んで器官や組織の形と機能を確認する作業を抵抗なく行えるのです。
http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2008_15/fea_ogawa_03.html