手引書重要

それにひきかえ、文章を書くというのは、高等教育そのものみたいなものだ。本1冊書こうと思ったら、かなり多数の本を読まねばならない。変なことは書けないので、調べることも必要になる。場合によったら、実験したり、試作したり、いろいろな作業を伴う。関係者だけが読むのではなく、第三者に読んでもらえるようなものを書ければ最高だ。

最近の大学は書かなくても良くなったのかな

まさに大学では「論文なり本を書くための方法」こそ学ぶべきだった。と、卒業して大分経ってから思った。当時はそういう意識をもったことは無かった。単に私がマヌケだっただけかも知れないが。
研究という活動の最終目的は、自分の考えを文書にすることだ。実験や観察や考察は文書を作るための材料作りの手段に過ぎない。だが現実的に、卒業研究の最初の段階から論文にすることを見据えて指導がなされている研究室がどれほどあるかは疑問がある。
どちらかといえば、提出前になって無理矢理これまでにした事をまとめる事の方が多いのではなかろうか。つまり実験や調査が主体で、文書作成が「何かをやった証拠としてでっちあげるもの」になっている。少なくとも私はそう感じていた。

日本では、ソフトウェアを作る、要するにプログラムを作ることは熱心だが、マニュアルをきちんと書いて、使いたい人に使える状態にするというのができないし、その必要性を理解できる人はいまだにほとんどいないのが実情だ。仕様書のようなものは書くが、良い入門書、手引書を書かない。困ったものである。

最近の大学は書かなくても良くなったのかな

「素晴しいソフトに下手なマニュアル」と「下手なソフトに丁寧なマニュアル」があった場合、どちらが普及するであろうか。明らかに、「下手なソフトに丁寧なマニュアル」が普及するのである。致命的なバグは困るが、そうでないバグならマニュアルで避けることは充分可能である。日本の教育は、正しいかどうかしか教えないので、重箱の隅をつつくような人を育ててしまう。

最近の大学は書かなくても良くなったのかな

うーん。たしかにマニュアルや手順書の作成はつい後回しにしがちかも知れない。でも文書に時間を掛けても、あんまり良い顔をされないんだよなあ。