母親の実家近くの葬儀会社で祖母のお通夜。

 朝8時から祖母の自宅*1で枕経があるということで、間に合うようにと6時過ぎに家を出た。ナビの指示通りに直線(ぽい)ルートで向かったが、途中に混雑する区間があったり*2、えらく狭い道があったりで、結局枕経には間に合わなかった。
 別の道で向かっていた父親も予想以上の混雑だったようで、自分の少し後に到着した。家の中では伯父と母親と祖母の弟夫婦が葬儀社と式の段取りを打ち合わせていた。式のプランは伯父が決め、親族からの生花やお供えは祖母の弟夫婦がまとめてくれることになった。他にも遺影の処理や背景の選択、ボンボリや振る舞いの食事のメニューなど、諸々の決め事を済ませた。
 そうこうしているうちに昼近くになった。現金を用意するために伯父と近くのコンビニまで行き、伯父を家に降ろしてから、一人で最寄のスーパーに弁当の買出しに。買い物の途中で母親からの電話で、弔問の親戚が増えたので弁当も多めに買うようにと。あわせて9人分の弁当とペットボトル3本、紙コップ、それとパン類やおにぎりをいくつか余分に買った。
 親戚が増えて家が手狭だったので、父親と自分は車の中で弁当を食べた。しばらくすると親戚が帰って行ったので、親族(伯父+両親+自分)はみんなで仮眠。
 午後3時半に葬儀社が祖母を迎えに来ることになっていたので、3時前に喪服に着替えて準備。伯父と母親はそのまま式場に泊まることになっているので、着替えなども用意していた。自分は泊まらずに帰るつもりでいたが、念のために宿泊できる用意はしておいた。
 午後3時半頃に参列者が式場に集まり、葬儀社のスタッフから段取りの説明。午後4時から通夜。
 読経と焼香が済んでから最期に坊さんの話があったが、ぼそぼそと聞き取れない声で、参列者の中で一番若く、前列に座っていた自分でも聞き取れないことが多かった。ましてほとんどが還暦を過ぎている親戚の皆さんにはほとんど聞こえなかっただろう。
 さらに話の内容もひどかった。自分が祖母と同じ病気(大動脈便狭窄症)になったことを延々しゃべった後で、どこぞの経文に少しだけ触れたかと思えば、再び自分の戦争体験をしゃべりだした。祖母に関する内容は5%も無かったかも知れない。
 そのくせ話自体は無駄に長いので、終わったときには皆くたびれ果てていた。後で両親と、お布施を5%くらいに減らしてしまおうかと冗談を言ったりもしたが、代わりにお経を上げられるわけでもないし、仕方ない。

 通夜というのは元々、亡骸に悪いモノが入らないように夜徹し見張るという風習…だったと記憶している。それるえ、式場のセレモニーホールの二階には宿泊施設が用意されている。施設は6畳ほどの和室が2室とシャワーと洗面台のついた洋室が連なった3部屋。飲み物入り(有料)の冷蔵庫もあったので、買い置きのパンや飲み物を入れておいた。もっとも、食堂にはコーヒー・紅茶・煎茶・ほうじ茶の無料サーバー(それぞれ冷温が選べる)があったので飲み物には不自由しなかったが。それから、同じ階に配膳室があり、ガラス引き戸の冷蔵庫や割り箸などを使うことができた。
 和室の一つの神棚の位置は、台に乗せたままお棺を運び込めるようになっていた。祖母の亡骸も通夜の後でこの場所に運ばれて、後から来る弔問客のために焼香台なども設置された。

 参列者には通夜の後、式場の2階の食堂で夕食が振る舞われる。事前には正確な人数がわからないので5人前の寿司桶を5個用意してあった。自分もしばらく端の方の席で寿司をつまんでいたが、ほとんど知らない親戚ばかりでどうにも居心地が悪い。ついにたまりかねて、棺が運び出された後の式場の祭壇を眺めたりして時間を潰した。
 夜の9時ごろにもなると皆さんぱらぱらと帰っていかれたが、一人いつまでも自分の子や孫の自慢話ばかりするオバさんがいて難渋した。この人は昔からこうで、子供の頃にも彼女の係累(会ったことも無い同年代の子供たち)がいかに良い子かを散々聞かされたものだ。10時過ぎにさすがに息子さんに引っ張られるようにしてようやく帰ってくれた。(すみません、でも疲れているところにどうでもいい自慢話を延々聞くのはしんどい)
 夜遅くなってはいたが、泊まる用意の無い父親は予定通りに家に帰った。自分も当初は帰るつもりだったけど、蒸し暑さにあたってひどく疲れていたし、伯父も残って欲しそうだったので泊まることにした。母親は祖母と同じ部屋で、自分は伯父と一緒にその隣の部屋で寝た。

*1:伯父の家・母親の実家

*2:出勤の混雑よりも早いと思っていたが甘かったらしい