研究予算=公共事業費

獲得しにくく使いにくいといわれる日本の科学研究費の舞台裏について。

多分世界で最初のとんかつ評論家 元木一朗のブログ:今日の朝日新聞朝刊の中村桂子さんの「私の視点」について

ちょっと長いけど印象に残った箇所を抜粋

1.政治力のある科学者が「この研究が必要です」と役所に陳情に行く
2.それをもとに、役人が勉強して、資料をつくる(場合によっては研究者がつくる)
3.財務省に説明する
4.財務省がオッケーと言ったら予算化され、プロジェクトが実施できる


という感じで、マネージャークラスの研究者になると、メインの仕事は研究ではなく、いかにして予算を取ってくるか、になる。今のバイオ研究はどれもこれも大規模プロジェクト化しているので、研究者の評価も政治力に密接に関係している。そして、このフローの中に「中立な専門化が俯瞰的に判断するフェイズが存在しない」という点に問題はある。


また、日本においては予算を取ってくる段階ではそこそこにきちんとした検討を行っていると思うのだが、それを執行する段階以降については検討が非常に甘い。そもそも一度取ってきた予算は全て使い切るのが研究者の役割なので、途中で駄目だとわかろうが何しようが、とにかく全部使い切る。これは年度末に一所懸命必要のない道路工事をやるのとなんら変わりがない。文科省経産省の役人からすれば「予算は取ってきたんだから、それを全部使い切るのが研究者の役目だ」ということになる。なぜそうなるかって、節約しても何も良いことがないからだ。お金が残れば、財務省に対して「あそこの申請はずさんだ。お金がない今の時期に必要のない費用を計上した」と判断されかねない客観的な事実を提供してしまうことになる。


これは日本のシステムの構造的な欠陥であり、これまでもこれを指摘した人は山ほどいるはずなのだが、なぜか全く改善されない。予算を立てるのは良いが、それを執行する段階においては「いかに節約するか」が重要で、節約することによって評価があがるという評価システムが必要である。


とはいえ、今はそういうシステムがないので仕方がない。もらったお金は全て使う、これが日本の常識である。留意点がこれしかないので、成果がどうなのか、ということは基本的に眼中にない。もちろん一部のマスコミやウェブサイトで「あれは費用対効果が見合っていないのではないか」と指摘されることはあるだろうが、それがその後に何らかの影響を及ぼすことはほとんどない。マネージャークラスの研究者はお金を取れるプロジェクトを企画立案するのが仕事、各省はそれをベースに予算申請を行うのが仕事、財務省はそれらを俯瞰して調整するのが仕事、であって、本気で成果を検討することもなければ、成果を次の予算申請にフィードバックすることもない。要は、みんながみんな、食べたら食べっぱなし、後片付けのことは知りません、という感じである。

こういう予算に対する意識が日本の官僚主義が批判(嘲笑?)される原因のひとつなのだろう。ちゃんと使わないともったいないですよね、マータイさん。研究費に限った問題ではなく、国家予算の使い方の原則および役所の意識から変えないと解決しようが無い。

こういう浪費がある一方で、ティッシュペーパーを買うのにも苦労する研究室が発生する。運悪く(もしくは深く考えずに)そんな研究室に入ってしまった学生は災難である。学生の身分では予算をどうこうすることは不可能なので、まともな研究ができずに腐ったり嫌気がさして辞めてしまう。